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■ 被爆の様子 ■
 袋町小学校は、爆心地から460メートルのところにあります。
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分、原爆によって、朝会のために校庭に出ていた教職員・児童ら約160名がほぼ全滅、数名だけが生き残りました。
現在の袋町小学校は、昭和20年当時とおなじ場所に建っています。爆心地は、現在の袋町小学校の学区の中にあります。

■ 奇跡的に助かった先生の話から ■
袋町小学校の被爆直後の校内がどんな様子であったかは、はっきりしませんが、北校舎の二教室と講堂は炸裂とともにふきたおされて燃えあがり、校庭で作業中の職員4、5名と70名ばかりの児童は地面に強くたたきつけられ即死したものと思われます。
奇跡的に助かった一人の先生(袋町小学校の先生)の話です。

 高いところからヒュ-という音がしてきた。大きな爆弾らしい、自分の頭の上に落ちてきたなと思って、急いで目と耳をおさえ、床の上にふせ、さらに、机の下にもぐりこんだ。
 目を開いてみると、周囲はまっ暗である。じっと見ていると、いっしゅんぱっと明るくなったので、「生きているか」とさけんだが、答える者はだれもいない。見ると、周囲に積んであった職員図書や、さまざまな教具が、全部、東側の窓べに吹き飛んでいた…。
 校庭に出てみると、ちょうど夜明けぐらいの明るさであった。女の人がひとり、もんぺの布が少し残っただけの丸裸でたおれていた。そのまわりに、やはりまっ黒になった裸の児童がたおれていた。動く者はだれもいない。…
    知事官舎の西を通り、控訴院前まで来ると、南の方から熱風がうずまいてきた。やむをえず、「これでは、みんな比治山の第二避難所へ行ったのだろう」と、方向を東に変えた。
 キリンビヤホールうらの堀まで来たとき、大つぶの雨が降って来た。敵飛行機の機銃掃射だろうと思って急いで橋の下にかくれた。そこには、まっ黒な姿の人々がいっぱい入っていた。
 …さらに、東へ進んで比治山へ向かう途中、「教頭先生」という声がした。「だれだね」と言うと、「○○です」と言うかすかな声。びっくりしたが、みんなまっ黒い顔ばかりで、わからなかった。「どこにいるの」と聞いても、ふたたび返事はなく、○○先生はついに見つからなかった。
(中略)
元安川まで来ると、死体がいっぱいうかんでいた。電車が黒こげになっていた。舟にのろうとすると、満員だという。しかし、どこへでもいける腕章をつけているので、乗せてもらい、県庁に着いたがだれもいなかった。…



出典: 袋町地区社会福祉協議会編「ふくろまち」
     昭和57年7月1日発行より一部改変
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